学校の画一的な指導・環境になじまない子は排除される
引き続きこの論文について。
市川和也(2019)通常学級における特別支援教育のあり方 --授業のユニバーサルデザインをめぐる論争に注目して --
京都大学大学院教育学研究科・教育方法学講座 教育方法の探究 第21巻 pp.37-44
1.はじめに 2.授業UDの展開
3.授業UDに対する評価
・授業UDに対する疑問の声も少なからず上がっている。
・授業UDによってもたらされた指導方法・ 学級環境が画一的な学習規律となり、 そのスタイルになじまない子が排除されてしまうという可能性があ る。
・授業UDによって、 子どもの多様性に応じるという視点が失われ、 考えなくなる教師が増えるという懸念が示されている。
・ 柘植も、 授業UDの手法がどんな障害を持っている子どもにも通用すると誤 解されることに対して警戒感を示している。
・ 湯浅は、学習の主体としての子どもの合意・ 納得を得ながらこの過程を推し進めていくことを主張する。
・ 石橋は、 授業UDの普及によって通常学級においても特別なニーズをもっ子 どもに対する支援の手立てを共通理解することが容易になる一方で 、 それぞれの教師が授業のなかで応答的に子どものニーズをとらえて 支援するという文脈が現場では弱まってしまうという課題があると 指摘する。
・ 赤木は子どもの学びの「違い」 を重視する新たなインクルーシブ教育観の構築を求める。
・ 教師が捉えた子どものニーズを先回りしてつまずきがおこらないよ うに教師が配慮するという授業UDとは異なり、 インクルーシブ授業論においては教師と子どもがつまずきをきっか けに授業を創り出す。その際に子どもは学習の主体として現れ、 意見を表明し「暗黙のルール」の転覆を図り、 新たなルールを作り出す。
4.UD概念に内包される可能性
・授業UDに対しては、
・一方でUDにはそれを乗り越える可能性もあるという。
・ UDの設計プロセスには設計者のみならず、 常に使用者の参加が必要となるという。
・ 授業UDが更なる展開をするためには、 教師によるつまずきの想定という点だけではなく、 UDの受益者である子どもたちに自らのニーズをいかに翻訳させ、 授業を編みなおす過程にいかに参加させるかという点について検討 しなくてはならないだろう。
5.おわりに
・授業UDは、この技術を使用・ 改善する側である教師たちによって議論が活発になされている。
・ しかしながら 授業UDという授業の技術は教師だけではなく、 子どもも設計の主体として位置づける必要がある。
・ 授業UDとして本来的に必要とされるのは、
・ この子ども像に基づいて授業UDが再構成されるならば、 教師と学習主体としての子どもが議論・合意を通して教室内の「 暗黙のルール」や学習規律、 授業を編みなおすことが可能となるであろう。
・ 合意に基づいて学習規律や授業を繍みなおす過程は容易ではない。
・ しかしながら、 こうした困難さがありながらも子どもたちが学習の主体となって教 師とともに授業を作っていくことが求められる。
・ なぜならUDそれ自体がユニバーサルであることへの絶え間ない希 求の過程であるからである。
感想
合意形成が必要だという話は、 学級に限らずどんな組織にも共通することだと思いま
す。
政府が国民の合意を得ないまま法律を決めたり、 校長が先生たちの合意を得ないまま方
針を決めたりしたら文句を言 いたくなります。
でも学級では担任がルールをたくさん作って、 押し付けてしまいがちです。
私の学級では筆箱は、 縦向きにして隣の机とくっつけると決めています。そこが、 一番落としづらいからです。
でもA君は、 そこに筆箱を置くとどうしても気になって勉強に集中できないよう でした。
そのルールを決めたのは私で、 その方がこどもが困らないと思っていましたが、 一番は私が困らないためだったのかもと思いました。(筆箱を落とす音がうるさいのでとても嫌いです)
授業の学習過程にしても、 教科ごとにできるだけ毎回同じ形にしようとしています。
それも、自分がやりやすいようにを考えて、 子どもの思考の流れを考えることが足りなかったように思います。
「 UDそれ自体がユニバーサルであることへの絶え間ない希求の過程 であるからである。」
とあるように、 恐らく完璧なやり方というのは無いのだと思います。
子どもの数だけ違う方法があるので。
汎用的な方法を見つけようとしすぎるのではなく、 今の方法でよいかを問い直し続けることが大切なのだと思いました 。