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アボリジニは「死にゆく人種」だった?

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2013年6月13日

 

今日はアボリジニの

「盗まれた世代」
について書きます。

 

「盗まれた世代」とは、

1869年から1969年までの間、

オーストラリア政府や教会によって 

家族から引き離された

オーストラリア・アボリジニの

混血の子どもたちを指す言葉です。

 

オーストラリア政府が行おうとしたのは

「同化・保護」という

アボリジニの人々に対する

人種隔離政策でした。

 

 

「同化・保護」を行った理由

一言で言うと、

オーストラリアを純粋な

白人社会にしたかったから

オーストラリア人は、

アボリジニを原始的な

石器時代の人間であると

認識していました。

 

オーストラリア人にとってアボリジニは

「絶滅すべき存在」だったのです。

1920年頃には、

アボリジニの人口は7万人

ほどにまで減少します。

 

そしてオーストラリア政府は

アボリジニを「死にゆく人種」として

分類するようになります。

西洋白人男性が世界で1番だと

考えているオーストラリア人は、

白人ではなく、あらゆる面で

自分たちよりも劣るアボリジニが

自分たちの社会に存在することが

おかしいと考えていたそうです。

 

 

「同化・保護」とは何か

同化

・混血アボリジニの子どもを親元から引き離す。

・その子どもたちを強制収容所や孤児院に収容する。

オーストラリア人としての教育を受けさせる。

 

しかしこの政策に対する財源は

ほとんど充てられず、結果失業、

アルコール依存症に陥る人が大勢居た。

 

また、アボリジニに免疫の無い病気も蔓延した。

「同化」という名の下の、単なる引き離しだった。

 

保護

純血アボリジニを、全国約250箇所に集めて、働かせる。

アボリジニの人々は、

賃金も与えられずひたすら働かせられました。

 

そしてその中には、

言語が通じない部族同士、

互いに関係を持ってはいけない部族同士

もいたそうです。

 

「保護」されるどころか、

奴隷のように扱われました。

 

 

オーストラリア政府は、

「同化」と「保護」という政策の下で

アボリジニの文化を絶やし、

アボリジニの存在そのものを

この世から消し去ろうとしたのです。

 

現在は多くのアボリジニが

オーストラリアで生活していますが、

結果として彼らからアボリジニとしての

アイデンティティを喪失させることになりました。

オーストラリアはなぜアボリジニを迫害したのか?

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-政府公認のゲームだったアボリジニ狩り-


2013年6月12日

 

今日は、

アボリジニに起こった悲劇

について書きます。

 

1788年のイギリスによる入植開始以降、

アボリジニの人口は減少し続け、

残った人々も社会の周辺へと

追いやられていきます。

 

アボリジニの人々が減少したのには

主に3つの理由があったそうです。

 

  

1.土地を奪われた

イギリス人は、

以下の2つの根拠に基づいて

アボリジニの土地を奪っていったそうです。

 

---------------------------------------------------------------
A.アボリジニは

・政治制度がない。

成文法も規律ある社会生活もない。

土地の所有関係をはっきりさせるものがない。

土地は未開・未所有なので、自由に開拓してよい。

 

B.神から与えられた土地を耕作せず、

 無為に放っておくことは

 キリスト教精神に反する。
---------------------------------------------------------------


A.
アボリジニには政治制度はありませんでしたが、

社会生活はありました。

イギリス人には、

裸で生活するアボリジニが

単なる野蛮人に見えたようです。

 

アボリジニが定住をしなかったのも

自然界と調和して生きる。」

という考えからであり、

イギリス側の論理は全く筋違いです。

B.
アボリジニが耕作をしなかったのもまた、

自然界と調和して生きる。」

という考えからでした。

彼らは自然に手を加えることを

よしとしなかったのです。

イギリス人が土地を奪う根拠は、

アボリジニの人々からすると

「意味不明」だったことでしょう。

しかし結局は土地争いに負け、

追い出されてしまうのです。

 

 

2.アボリジニ狩り

イギリス人は、

・服を着ない

・文字を持たない

・色が黒い

・文化を持たない

アボリジニを人類以前の生き物として

みなしていたそうです。

アボリジニを「人」として

認識していなかったのです。

アボリジニを殺すのは

動物を殺すのをなんら

変わらなかったのです

 

彼らは週末になると

「アボリジニ狩り」をおこなったそうです。

まるでゲームのように。

そしてなんとそれは政府公認であったとか。

 

3.伝染病

伝染病を持ち込んだのは、
入植したイギリス人です。
 
もちろんアボリジニの人々には
免疫がありません。
 
多くのアボリジニが原因も分からず
バタバタと倒れていったそうです。
 


その後

アボリジニも抵抗はしたそうですが、

当時世界一の国であった
イギリスに勝てるはずがありません。

1920年頃になると、
こうした強制的な迫害は無くなります。
しかし当初50~100万人いた
アボリジニの人々は、
この頃には7万人ほどにまで
減ってしまったそうです。

そしてアボリジニの人々の悲劇は
これだけではありませんでした。
明日は、
「奪われた世代」
について書きます。


調べれば調べるほど、
悲しくなってきます。
 
バンダバーグへ来る前、
ブリスベンでアボリジニに関する展示を目にしました。
 
その時は知識が無かったので
何も思いませんでしたが、
その展示の裏には
こうした歴史が隠されていたのだと思うと
ゾッとしました。

オーストラリアに住むアボリジニとは何か?

かつて『アボリジニ』に白人社会の食事が与えられたとき…歯の状態は ...

2013年6月11日

 

ファームに新しくタイ人がやってきました。

どう見ても40歳くらいのおじさんです。

「何歳?」と聞くと、「22歳」と言いました。

さらに「ワーホリビザを使ってオーストラリアに来た。」と言ってのけました。

なんでもありです。

 

仕事中に、ポケットに入れていた

アボカドを切って分けてくれました。

結構いい奴です。

 

これからしばらくは、

アボリジニについて。

 

この記事では、

今のオーストラリアを形作ったのは

囚人たちだったということを書きました。

しかしこの爆発的な経済発展は、

ある犠牲の上に成り立っていたものでした。

それは「アボリジニ」の人々です。

今日はアボリジニとは何か?についてです。

 

 

起源

12万年ないしは5万年前に他の大陸から

移住してきた。(未だ議論中)

 

生活

○家を持たず、移動を繰り返して生きる。

○農耕、放牧をしない。

○男性がブーメランや槍で動物を捕まえ、女性は植物や魚を採る。

○文字を持たない。⇒アボリジニアートが生まれた。

 

社会

○500ほどの部族、200以上の言語。

○一夫多妻制。

3歳から子供だけの生活空間で年長の子供から基本的な生活習慣を学ぶ。

5歳から子供同士で狩りや踊りの真似事で遊びながら部族の社会性を身に着ける。

○10歳で成人の儀礼を行う。

○アボリジニの男は「ドリーミング」を学び、より多くの儀式へ参加することで自らの社会的地位を高め、更により多くの部族を知ることや部族間の異なる言葉をより多く話せることが自慢だったと言われている。

 

ドリーミング

アボリジニ独特の思想体系。

彼らの神話、伝統、儀式、習慣、全てが「ドリーミング」。

祖先から受け継いだそれらを、

「ドリーミング」という物語として

今も伝えている。

 

思想

「空と大地の神が世界を作り、

私たち人間が生まれ育った大地は

家族が暮らす大きな家。」

という概念が根底にあり、

自然界と調和して生きる、

自然への畏敬の念を忘れずに

暮らすことこそが、

本当の幸せをもたらす。

 

感想

調べてみると、かなり独特の文化を
形成していたことがわかりました。
 
彼らが住むのは砂漠の辺境地帯。
普通の人間ならとても住めないような
厳しい自然環境の中です。


その厳しい自然環境へ故意に

手を加えることもなく生きてきた人間が、

アボリジニでした。


一見、何もないように見える大地から

芋を見つけて掘り出し、特別な木を見つけて

そこから噴出す水を飲む。

 

自然には暮らすための何もかもが揃っている

それが彼らの考え方なのだそうです。

家を作り、服を着て、農耕し、

放牧し、工場で生産を伸ばし、

店や会社を持ち、娯楽を増やし、

自然を完全に作り変えてしまった

私たち現代人とは間逆の存在なのです。

 

 

囚人の国オーストラリアが発展したわけ

ナポレオン・ボナパルト - Wikipedia

2013年6月8日

 

1788年からイギリスはオーストラリアへの

入植を始めるわけですが、

その後「植民地オーストラリア」は

予想外の発展をしていきます。


もはや単なる「囚人の移送先」では

無くなっていくわけです。

しかしなぜ、単なる植民地が

そんなにも発展することができたのか。

その理由について調べてみました。

大きな発展の主な理由は3つあったそうです。

 

 

 

 

1.豊富な資源

言うまでも無く、

オーストラリア

豊富な資源があったこと

が1番の理由です

 


2.囚人の質

囚人たちの80%は16~35歳でした。

まさに働きざかりの年齢です。

また、彼らの識字率や熟練労働者の割合

ロンドンの数字とほぼ同じか

れを上回るほどだったそうです。

教育の必要がありませんでした。

 

さらに、囚人なので社会福祉の必要も

ありませんでした。

 

つまり、オーストラリア

教育の必要も社会福祉の必要も無い

最も便利な労働力

確保したのです。

 


3.
ナポレオン戦争の終結

上記のような好条件が

揃っていたにも関わらず、

実は1815年頃までは

オーストラリアの発展は緩やかなものでした。

 

1815年に何があったかというと、

「ナポレオン戦争の終結」です。

フランス革命戦争の勃発により、

1790年頃からイギリス国内の余剰戦力は

軍隊に吸収されていきます。


もちろん、囚人もです。

しかし1815年、ナポレオン戦争が終結。

犯罪者や浮浪者を大量に抱えていた軍隊も解散。

一気に25万人が失業します。

またまた犯罪者が急増。

ここでまたオーストラリアの出番です。

こうして、1815年からの5年間で

植民地の人口は2倍以上までに膨らみます。

 

イギリスはこれを利用して

オーストラリアを更に発展させていくのです。

オーストラリアが植民地になったのは、産業革命で犯罪者が増えたから

数分で、第四次産業革命を概観|Masaya.Mori 森正弥|note

 

時は大航海時代。

数多くのヨーロッパ人が、

新たな大陸を求めて海に出ました。

 

オーストラリア大陸に最初に

到来した白人はオランダ人でした。

1606年のことです。

 

しかし彼が到達したところは

赤道付近の北部地域。

植民地には向かないと判断し、

引き返しました。

 

時を経て1788年、

遂にイギリスによる入植が始まりました。

の植民地化には、

「産業革命」が深く関わっていたのです。

18世紀~19世紀にかけて、

イギリスでは産業革命が起こります。

革命初期は、当然莫大な人手を必要としていました。

そして数多くの労働者が工場で働いていました。

しかし時代は変わります。

労働者が最も恐れる

「機械化」が進められたのです。

機械化によって多くの労働者が職を失います。

貧しい人々が増えると

それに伴って増えるのは、「犯罪」。

盗みを働く人が急増します。

 

当時のイギリスでは、

パンを盗んでも服を盗んでもお金を盗んでも

全て死刑が宣告されたそうです。

こうして、「死刑宣告」された

囚人が後を絶ちませんでした。

 

元々イギリスでは、

罪人を北米植民地へ移送し労働力として

現地の地主に売却するという制度がありました。

奴隷になるわけです。

 

しかしアメリカ独立戦争の勃発により、

イギリス政府は罪人の移送先を失ってしまいます。

 

イギリス国内の収容所はもう囚人でいっぱい。

政府は新しい収容先を模索し、

囚人によって新たに植民地を

建設しようという提案が起こりました

 

こうして候補地に選ばれたのが

現在のオーストラリアだったのでした

学校は新しいツールよりも、昔ながらのツールに固執する

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これは、 既存のカリキュラムのほとんどにもともと存在する障壁を乗り越えるために使える方略集だそうです。
 
これとガイドライン全文を照らし合わせながら読み進めていくと、
もう既に日本の公立小学校の先生たちが、様々な困難を抱える子供たちに配慮した方法を実施していることがわかります。
 
ただ、ここに書かれていて日本の公立小学校で行われることが少ないと感じたのは、「テクノロジー」についてです。
 
「1.1情報の表し方をカスタマイズする多様な方法を提供するには、
・印刷教材では、情報はずっと固定された形で表示される。
・適切に準備されたデジタル教材なら、同じ情報でも表示のしかたをいろいろと変えられる。
・順応性が高く、カスタマイズ(調整)が可能である。
といったことが書かれていました。
 
普段自分が使っている教材が、全員にとって使いやすいとは限らず、
形を変えればもっと使いやすいものになるかもしれない。
これまでそんな風に考えたことはありませんでした。
 
※デジタル教科書は形を変えることができますが、
児童1人1人の困難に合わせてカスタマイズすることはできません
 
 
また、「 5.2制作や作文に多様なツールを使う 」には、
・ 学校では新しいツールよりも昔ながらのツールに固執する傾向が見られる。
・この傾向には、いくつかの弊害がある。
1)学習者の将来にむけた準備になっていない。
2)内容や教える方法で、できることの幅が限られてしまう。
3)学習者が学んだ内容についての知識を表出する(評価してもらう)ために使えるすべが限られてしまう。
4)そのツールでうまくやれる学習者も限られてしまう。
 
といったことが書かれていました。
 
配慮が必要な子どもにこそ、テクノロジーをはじめとしたさまざまな方法に触れさせ、
彼らの可能性を引き出すことが必要だと感じました。
また、方法を絞ることで、可能性を狭めてしまうこともあるのだと知りました。
 
 「学びのユニバーサルデザイン(UDL)ガイドライン全文」
Suggested Citation:CAST (2011).Universal Design for Learning Guidelines version 2.0.Wakefield, MA: Author.日本語版翻訳:金子晴恵バーンズ亀山静子

 


 

オーストラリア豆知識シリーズVol.3 グリーンティーにミルクは入れる?

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長文で書くまでもない、

オーストラリア豆知識を紹介します。

 

 

 

#11 店が開くのも閉まるのも早い

とにかく早いです。

朝5時からカフェが開いています。

朝7時からスーパーが開いています。

そして夕方5時にはほとんどの店が閉まります。

だから平日は買い物ができません...。

スーパーだけは、8時頃までやっています。

もしかするとファームの街だからかもしれません。

オーストラリアというかバンダバーグ豆知識でしょうか。

 

 

#12 グリーンティーにミルクを入れる

日本人でも入れる人はいるのでしょうか。

ゴールドコーストでホストファミリーがそうしていたことにとても驚きました。

イギリス人の友人もグリーンティーにミルクを入れていました

西洋の風習なんだそうです。

結構おいしいです。

 

 

#13 飲食店も多国籍

ゴールドコーストにもブリスベンにもバンダバーグにも、

色んな国の飲食店があります。

バンダバーグはとても小さい街ですが、

中華料理店、インド料理店、

イタリア料理店、フランス料理店など色々あります。

日本料理店も2件あります。

移民の国オーストラリアらしいです。

 

 

suteacher.hatenablog.com

suteacher.hatenablog.com

カリキュラムに「障害がある」とはどういう意味か?

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引き続きこの資料について。
 
「学びのユニバーサルデザイン(UDL)ガイドライン全文」
Suggested Citation:CAST (2011).Universal Design for Learning Guidelines version 2.0.Wakefield, MA: Author.日本語版翻訳:金子晴恵バーンズ亀山静子
 
 

 

カリキュラムに「障害がある」とはどういう意味か?

1.「誰に教えることができるか」という点

カリキュラムは、教室に現実に存在するさまざまな学習者が使用することを想定、デザイン、検証されていない場合がしばしばある。
特別に優れた能力や才能がある人、特別なニーズや障害のある人、母語が外国語の人など、“普通”の枠に入らない学習者ほど、架空の“平均的な人”のために考案されたカリキュラムによって負担を背負わされがちである。

2.「何を教えることができるか」という点

カリキュラムは情報や内容を伝授したり評価したりするためにデザインされることが多く、学習者が理解し、判断し、まとめ、情報を使える知識に変換するのに必要なスキルである学習方略を育てることまで考慮されていない。

3.「どのように教えられるか」という点

カリキュラムは、とても限られた教え方のオプションしか提供できないことがしばしばある。
大概は、学習者の違いに応じて、あるいは同じ学習者であってもその時の理解度に合わせて、教え方をいろいろと変えられるようになっていないだけでなく、教育学的研究の根拠に基く多くの重要な要素を提供できていないという点からも障害があると言える。 
 
 

UDLはどのようにカリキュラムの障害に対処するのか?

既存のカリキュラムをよりアクセス可能にするためによくとられる方法は、そのカリキュラムを改造して全ての学習者がよりアクセスしやすくしようとすること。
学びのユニバーサルデザインとは、最初から一人ひとりの違いに対処する意図で体系的にカリキュラム(すなわち、目標・方法・教材教具・評価)をデザインすることを意味している。
 
 

感想

これが書かれたのは旧学習指導要領の時のことなので今とは状況が違うとは思いますが、カリキュラム自体を問い続けることは必要なのかなと思いました。
 
・1学級に1人の担任がいるということ
・1学級の人数が30~40人であること
・みんなが座って一斉授業を受けること
など、今ある環境でどうやって教えようかと考えることも大切ですが、
そもそもその環境に疑問をもつことも必要なのかなと思いました。

「オーストラリア」という国名になったわけ

2013年6月3日

 

その昔、古代ギリシアでのお話。

知識人の間では地球球体説

既に唱えられていました。

 

しかし当時知られていた大陸は、

全て北半球に偏っていました。

 

「なんてバランスが悪いんだ。」

と思った彼らは、

南半球にも、釣り合いが取れる

 巨大な陸地があるはずだ!」

という仮説を打ち立てます。

ダイナミックですね。


彼らはその仮説上の大陸を

「メガラニカ」

または

「テラ・アウストラリス・インコグニタ」

と呼びました。

未知の南方大陸という意味だそうです。

これらは長く仮説に過ぎませんでしたが、

大航海時代(15世紀頃)に突入すると

南半球にも多くの陸地があることが

明らかになります。


人々は、

「メガラニカがあるかもしれない!!」

と胸を躍らせました。


そして現在のニュージーランドや

オーストラリアが次々と発見され、

そのたびに人々は

「遂にメガラニカ発見だ!!」

と喜びました。

 

しかしどれも考えていた程大きくはなく

次第にメガラニカの存在は

完全に否定されるようになりました。

しかし今のオーストラリア大陸は

その後も「テラ・アウストラリア」

呼ばれ続けました。


時を経て、

より言いやすいオーストラリア

という名前が定着したということです。

 

おしまい

 

 

「未知の南方大陸」発見は、

先人たちの夢でした。


彼らにとっての

「新たな大陸の発見」は、

例えるならば私達にとっての

「宇宙人の発見」くらいに心躍る

ものだったのではないでしょうか。

未知の大陸を求めて航海する。

これこそが冒険だと思いました。

オーストラリア」という名前には、

壮大なドラマが隠されていました。

 

  ja.wikipedia.org

あまり国にいないオーストラリア国王の仕事は誰がする?

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昨日の記事には、

イギリス女王エリザベス2世がオーストラリア女王でもあるということを書きました。

suteacher.hatenablog.com

しかし疑問も湧いてきます。

エリザベス女王は何カ国もある

英連邦の「女王」としての仕事を、

どうやってこなしているのか。

 

 

オーストラリア総督

どうやらオーストラリアには、

オーストラリア総督」という

女王の代理人がいるようです。

 


国王(女王)の代理として、

オーストラリアの首都キャンベラに

駐在しているそうです。

現在のオーストラリア総督は

クエンティン・ブライス。

オーストラリア史上初の女性総督です。

(2013年時点)

 

最新情報はこちら↓

ja.wikipedia.org

 

「総督」の歴史

オーストラリアがまだ

イギリスの植民地だったその昔、

各植民地のトップは「Governor(統治者)」と呼ばれ、

イギリス政府によって任命された

イギリス人がその任務を任されていました。

 

しかし1800年代後半、

植民者が急激に増えたこともあり

行政権力は次第に政府に移行しました。

そしてGovernorの仕事は、

形式的なもののみとなっていきます。

 

オーストラリア連邦形成にあたり、

形骸化していくGovernorという役職を

廃止するという意見も多くでたそうですが、

存続され現在に至っています。

 

そのGovernorは現在

「Governor-General(総督)」と呼ばれ、

2008年の9月5日に

クエンティン・ブライスがその役職に就き、

初の女性総督としてオーストラリア内外で

大きなニュースになったそうです。

 

 

総督の選ばれ方

オーストラリア政府が指名した人物を

イギリスの王が任命する。

 

60年ほど前総督をめぐってトラブルが起こり、

それ以降にオーストラリア政府は

政治的野心の少なく、穏健で、

人々の尊敬を集めるような人物

連邦総督に指名する傾向が強くなったそうです。

 

 

 

「女王」にしても「総督」にしても、

オーストラリアにはかつての

イギリスの植民地時代の名残が残っています。


オーストラリアに住んでいると

そんなにイギリスを感じることはないですが。


習慣や文化、性格から国家体制まで、

日本人の私からすると信じられないことが多く存在します。

悪いのは学習者ではなくカリキュラムだ。

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今日からはこの資料について。

「学びのユニバーサルデザイン(UDL)ガイドライン全文」
Suggested Citation:CAST (2011).Universal Design for Learning Guidelines version
2.0.Wakefield, MA: Author.日本語版翻訳:金子晴恵バーンズ亀山静子
 
 
 
昨日の国語は、昨年の思い出を文にする学習でした。
しかしA君は、ずっと好きな虫の名前を書き続けていました。
 
休校を経て勉強する意味が以前にも増して分からなくなってしまったA君に、思い出を文にするという概念は伝わりません。
もはや、「思い出」の意味すらほとんどわかっていません。
A君にそのことをやらせようとすること自体が間違っているのではないかと思ってしまいます。
 
今日は登校日ではなかったので、他の学年の先生の教室を見に行ってきました。
支援が必要な子への対応がとても上手で、その子たちを否定する言葉を使わずに、うまく子どもを動かしていました。
 
「 通常教育の中で学べるように、障害を克服させようとしていた。」という言葉が資料の中にありますが、「それは自分のことではないか。」と思ってしまいました。
 
1人1人を伸ばすための、1人1人に合った方法がもっと他にあるのではないか。考えなおそうと思います。
 
 

序章

・ CASTは約26年前に、障害のある学習者が通常カリキュラムにアクセスするための方法の開発を始めた
 
・ 当初は彼ら一人ひとりを適応させること、あるいは“治す”ことの手助けに目を向けていた。
 
・ つまり、通常教育の中で学べるように、障害を克服させようとしていた。
 
・1980年代の終わりには、カリキュラムとその制限の方に視点を移していった。
 
・ ほとんどのカリキュラムは一人ひとりの多様性に対応できるものではなく、
障害があるのは学習者よりもむしろカリキュラムの方であり、学習者ではなくカリキュラムこそ「直す」必要があるのだと考えるようになった。
 
 

はじめに

 
・ 教育の目標は、単に知識や新しい技術の使い方を習得するだけではなく、学びのプロセスそのものを習得することにある。
 
・教育は学びの入門者を学びのエキスパート(expert learner )にする手助けをしなければならない。
 
・ 学びのエキスパート(expertlearner )とは、学びたいという気持ちを持ち、方略的に学ぶ方法がわかり、自分に合った柔軟なやり方で生涯にわたる学習に十分備えられている者をさす。
 
・UDLは、最初から全ての学習者のニーズに合った教育をどのようにつくっていくかを理解するための枠組みを提供する。
 
 

UDLの概念

・UDLは、「全員一律で対応させようとさせる(one-size-fits-all)」ようなカリキュラムに対処するための枠組み。
 
 特別な能力や才能を持った学習者や障害のある学習者など、いわゆる「“ふつう”の枠に収まらない」学習者はとりわけそうした障壁に阻まれがちである。
 
 
 

3原則

原則Ⅰ  提示のための多様な方法の提供

・ 提示された情報をどのように認識し、理解するかは、学習者によって異なる。
 
・感覚器官に障害のある人、学習障害のある人、言語や文化の異なる人などが学習内容にアプローチするためには、皆それぞれに違った方法が必要になる。
 
・ 全ての学習者に最適な一つの提示方法はない。
 

原則Ⅱ  行動と表出のための多様な方法の提供

・ どのように学習を進めたり知っていることを表現するかは、学習者によって異なる。
 
・ 自分の伝えたいことを言葉で話すのではなく書いて表現する方がうまくできる人もいれば、その逆の人もいるかもしれない。
 
・ 全ての学習者に最適な一つの行動や表出の方法はない。
 

原則Ⅲ  取り組みのための多様な方法の提供

・ どんな方法で学習に取り組んだりやる気を出したりできるかは、学習者によって顕著に異なる。
 
・ たまたま起きたことや目新しいことだと張り切って取り組む学習者もいれば、そういうものには取り組まない学習者もいる。中には、そのような要素を不安がって、むしろいつも決まった事柄に取り組むのを好む学習者もいる。一人で作業するのを好む学習者もいるかもしれないし、仲間と作業するのを好む学習者もいる。
 
・ 全ての学習者にとって全ての状況で最適な一つの取り組みの方法はない。

オーストラリア人のホストマザーがエリザベス女王を敬愛する理由がわかった

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2013年5月30日

 

今日はスイートポテトの

プランティング(植え付け)でした。

腰が壊れました。

遂にゲットしたレギュラーファームは、

うちの宿で1番過酷なファームでした。

今までとは比較にならない過酷さです。

 

今日は、

オーストラリアの君主について。

 

つい最近知ったのですが、オーストラリアの君主は

イギリス女王として有名なエリザベス2世なのだそうです。

2ヶ月もオーストラリアに居るのに

知らないなんて情けない...。

 

なぜ女王が同じなのか?

不思議に思い、調べてみました。

 

エリザベス女王は決して特定の国の女王ではなく、

英連邦王国(Commonwealth realm)の女王とのこと。

 

英連邦王国はイギリスと元イギリス植民地の

国々で構成されています。

加盟国は

イギリス

オーストラリア

ニュージーランド

カナダ

ツバル

ソロモン諸島

セントビンセント

グレナディーン

セントルシア

セントクリストファー

ネイビス

パプアニューギニア

ジャマイカ

グレナダ

ベリーズ

バルバドス

アンティグア

バーブーダ

バハマ

の16カ国で、全ての国の女王・元首はエリザベス2世です。

(2013年時点)

 

最新情報はこちら↓

ja.wikipedia.org

 

名目上は「英連邦」でもこれらの国々は

現在は完全に独立しており、

平等な関係にあります。

女王については、例えば現在のエリザベス2世は、

オーストラリアで「オーストラリア女王」として、

カナダで「カナダ女王」として、

ツバルで「ツバル女王」として、

それぞれ君臨する(君臨すれども統治せず)のであり、

いずれも決して「イギリス女王」として君臨する訳でなく、

各々の王位が相互に独立している関係にあるそうです。

ホストマザーのロスがエリザベス女王を

敬愛していた理由が分かりました。

オージーにとって、

自分たちの国の女王でもあったのですね。

 

オーストラリアの首都があまり知られていないキャンベラになったわけ

キャンベラ日帰りツアー [トラベルドンキー] シドニー・オーストラリア

2013年5月29日

オーストラリアの首都は「キャンベラ」です。

キャンベラを知らないという人も多いと思います。


オーストラリア内陸部では最大の都市ではあるものの、

決して大きな街ではありません。

人口も、決して多くはありません。


オーストラリアの主要都市人口ランキング
1位:シドニー(430万人)

2位:メルボルン(380万人)

3位:ブリスベン(180万人)

4位:パース(150万人)

・・・・・

6位:ゴールドコースト(58万人)

・・・

8位:キャンベラ(38万人)

少ない!!

 

本題です。

なぜキャンベラが首都なのか。

110年前、オーストラリアは1つになりました。

そこで問題になったのは、首都をどこに置くか

手を上げたのはオーストラリアの2大都市シドニーとメルボルン。

 

互いに譲らず、妥協策として

地理的にシドニーとメルボルンの間に位置する

キャンベラが首都に決まったんだそうです。

キャンベラ市民はよほど驚いたのではないでしょうか。

 

オーストラリアの正式名称はオーストラリアではない?

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オーストラリアの正式名称は、

オーストラリア連邦。

英語でCommonwealth of Australia

 

 

連邦制とは?

オーストラリアには、

6つの州と1つの特別地域が存在します。

ちなみに私がいるバンダバーグはクイーンズランド州です。


日本人にはなじみの薄い連邦制。

2つ以上の国(州)が1つになった国家のことです。

 

オーストラリア連邦の歴史

18世紀後半、イギリスはオーストラリアの開発を本格的に進めます。

その理由は、主に豊富な資源の獲得と、囚人を送り込む場所の確保です。

しかし決して皆でまとまって植民地化を進めたわけではなく、

色んな集団が、色んなところでそれぞれ別々に入植を始めました。

そしてそれぞれ別々に独立した自治体を形成しました。

 

そういうわけで、元々オーストラリアは1つではありませんでした

 

オーストラリア連邦になったわけ

しかしなぜそれぞれの自治体は1つになろうとしたのか。

理由は主に3つあったそうです。

 

1.経済的理由

国外に対する産業保護と、国内の貿易のため。

また1890年代の経済危機とその後の労働問題はとても深刻で、

国として1つになって解決する必要があった。

 

2.防衛上の理由

19世紀末の帝国主義の時代になると、

列強の太平洋進出が現実のものとして感じられるようになった。

このような対外的脅威に対抗するため、

統一的な軍事組織を持つ必要があった。

 

3.移民問題

ゴールドラッシュ以降の非ヨーロッパ系移民を制限するために、

オーストラリア全体で包括的なルールが必要とされた。

 

そして1901年1月1日、

20世紀のはじまりとともに、

オーストラリア連邦 the Commonwealth of Australia が誕生しました。

 

 


日本も外国の力への対抗や国家財政の安定が目的で日本を一つにしたわけですが、

大きな違いは、日本は結局1つ1つの藩を潰してしまったことだと思います。

日本では新たに国ができるとき戊辰戦争などの戦争が起こりましたが、オーストラリア連邦はわりとあっさり成立したようです。

 

suteacher.hatenablog.com

ここで書いたようにAnzac Dayが大きな意味をもつ理由も、このあたりにあるのかもしれません。

 

国旗に隠される意味とは?

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2013年5月27日

 

今日ATMを確認したらしっかりと600豪ドル入っていました。
助かった...。

 

今日は国旗について。

 

今日仕事で使っていたトラクターに、

オーストラリア国旗が吊られていました。

オーストラリアの国旗にはどんな意味が隠されているのだろう。

ふと疑問に感じたので調べてみました。

 

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オーストラリアの国旗は、旗の左上にイギリスとのつながりを象徴するユニオンフラッグ(イギリス国旗)を、右側には国土が南半球にあることを象徴する南十字星を、そして左下には6州1準州による連邦を象徴する七稜星を配している。

オーストラリアの国旗 - Wikipedia

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オーストラリアの国旗は、

・イギリスと深い繋がりがある。

・南半球に位置している。

・連邦制をとっている。

という意味が含まれているようです。

 

国旗というのは、

国が大事にしている概念みたいなものを

表しているかなと勝手に予想していましたが、

これだとまるでオーストラリアという国の

超簡潔な説明だなと感じました。

少し意外でした。

 


日本の国旗についても、調べてみました。

結論から言うと、

色んな説があってよくわかりませんでした。

 

以下、上皇陛下のお言葉です。


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「世界の国々が国旗、国歌を持っており、国旗、国歌を重んじることを学校で教えることは大切なことだと思います。国旗、国歌は国を象徴するものと考えられ、それらに対する国民の気持ちが大事にされなければなりません。オリンピックでは優勝選手が日章旗を持ってウィニングランをする姿が見られます。選手の喜びの表情の中には、強制された姿はありません。国旗、国歌については、国民一人一人の中で考えられていくことが望ましいと考えます」

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国旗はじめ、国の象徴をどのように捉えるかは自分たち次第。

答えは無いけど、常に問い続けていくことが大切だとわかりました。