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失われていくアボリジニ文化

そこに広がるのは異世界。アボリジニ・アートに学ぶものの見方 ...

2013年7月2日

 

 

今日はクイーンズランド博物館で
アボリジニに関する展示を、
 
クイーンズランドアートギャラリーで
アボリジニアートを見てきました。

 

 

 

この展示は、以前にブリスベンに

立ち寄ったときにも気になっていたものです。

suteacher.hatenablog.com

また、バンダバーグ滞在中に

アボリジニについて調べていたので、

なおさら気になっていたところでした。

suteacher.hatenablog.com

 

 

 

アボリジニ

ブリスベンにおけるアボリジニの歴史が

展示されていました。

 

文章の内容は正直知っていたことばかりです。

しかし実際の写真を見るとやはり衝撃的でした。

 

アボリジニの人々が強要された

現代人の格好にはとても違和感を持ちました。

 

アボリジニの人々は皆、悲しそうな顔をしていました。

このとき彼らは何を思っていたんだろう

と考えると、何度も涙が出そうになりました。

博物館には数多くの人がいましたが、

アボリジニの展示コーナーには

ほとんど人は居ませんでした。

 

オーストラリアの人々の、アボリジニへの関心は

あまり高くないのかもしれません。

 

 

アボリジニアートとは?

アボリジニにはもともと文字文化がなく、

踊りや歌、絵を描く事によって、

先祖代々伝わる神話や物語などを伝えていました。

 

「アート」というのはヨーロッパ人が

勝手に名づけたものであり、

アボリジニの人々にとってのそれは伝達手段でした。

 

抽象的な模様に見えるものも、

1つ1つに意味があり、

実は水のありかを伝える地図や、

物語を伝える本の役割をしているそうです。

 

 

変化するアボリジニアート

本来アボリジニアートは

物語としての役割

を持っていました。

 

それはアボリジニの人々だからこそ

描ける物語でした。

 

しかし今のアボリジニの若者は

アボリジニ的な生き方をしません。

 

本物のアボリジニ、本物のアボリジニアートを

描くアボリジニはもうほとんどいないうです。

 

また、アボリジニアートは高値で売れるため

売れるようなアボリジニアートを描く

画家も大勢いるそうです。

 

アボリジニアートを見た感想

芸術センスゼロの私には、

芸術としてのよさは

正直、よくわかりませんでした。

 

メルボルンにはもっと大きな

アボリジニアートギャラリーがあるそうなので

そこにも行ってみたら何かわかるかもしれません。

 

ただ、文化が失われていくのは

どの国も、どの民族も共通する

問題なのだと思いました。

 

 

 

EXPO88がブリスベンの歴史を変えた?

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2013年7月1日

 

ブリスベンシティホールのミュージアムで

「THE RIVER」の次に見たのは

「EXPO88」です。

 

1988年に、まだ無名だったブリスベンが

エキスポを開催したのです。

 

 

ブリスベンがエキスポの開催地に選ばれた理由

元々、開催地を巡り争っていたのは

シドニーとメルボルンでした。


でもその頃オーストラリア政府は金欠でした。

大きな街でやるとその分お金がかかるので、

政府は困ります。

 

そこで手を挙げたのがブリスベン

他の州は揃って反対しました。

 

なんで無名の街でエキスポをやるんだと。

しかし結局エキスポの開催地は

ブリスベンに決まりました。


こうして、

お金をかけない小さなエキスポ

が生まれたそうです。



ブリスベンの街に起こった変化

多くの人々の予想に反して、

ブリスベンのエキスポは

とても盛り上がったそうです。

 

その楽しさを知ったブリスベンの人々は、

エキスポが終わったとしても

旅行者を受け入れること、

そして彼らを楽しませることを

やめませんでした。

 

こうしてブリスベンは

オーストラリアを代表する観光地となるのです。

 

その影響からブリスベンでは

急激にカフェ文化、芸術、観光産業などが

発達したそうです。

そういえばブリスベンには

街の至る所に芸術品があります。


もしかすると、これらも1988年のエキスポが

関係しているのかもしれません。

 

歴史を知った上でその街を歩いてみると

街を見る目が全く変わりま

見るもの全てに歴史を感じるようになります。

「川の街」ブリスベン

連載コラム】地球に優しい旅しよう!「変貌するリバーシティ ...

2013年7月1日

 


今朝5時にバンダバーグを出発し、

昼頃ブリスベンに到着しました。

 

宿に荷物を置いてからシティホールに居ました。

シティホールはブリスベンの中心に位置する時計台です。

 

中に入ると博物館、コンサートホール、

図書館、レストランなどがあります。

2ヶ月間も汚らしい所に居たので

少し緊張してしまいました。笑

 

今日は博物館へ行きました。

そこで教えてくれるのは、ブリスベンの歴史です。

 

 
 

■「THE RIVER」
こんな文章がありました。

"川って何?
美しい風景の一つ?
船の道?
スポーツをする場所?
乾いた都市に水をもたらしてくれるもの?
洪水をもたらすもの?
漁師の家?
動物や植物の棲家?
工場や家のための下水道?
ブリスベンの川はそれら全てでした。"

「川」は人々の生活に欠かせないものでした。

船と船の駅ができたことで
他の都市とのやり取りができるようになりました。
 
更にその後ブリスベンの川に橋がかかったことで
人口が増え、他の都市とのやり取りも更に多くなり、
経済は発展し、街は活性化したそうです。
"「川の横断」は、ブリスベンに欠かせない街の象徴"だったようです。


ブリスベンには、大きな観光ポイントが2つあります。
「船」「橋」です。
 
ブリスベンでは、川を渡る綺麗な船が
バスと同じように常時運航しています。
バス用の電子マネーも使えます。

また、ブリスベンには大きな橋が2つあり
夜になるとイルミネーションが美しく輝きます。
橋を上るツアーもあるようです。
ちなみに、ブリスベンの宣伝ビデオには
常に川が映っています。ほぼ川です。

ブリスベンは「川の街」なのです。
 
 

 

オーストラリアの人種差別を生み出したのは「金」?

 金価格さらに高騰!「今から購入するのは損」とは言えない理由 | 富裕 ...

 2013年6月23日

 

1800年代後半に起こった「ゴールドラッシュ」が

オーストラリアの発展に影響を与えます。

 

 

 

1.ゴールドラッシュとは?

金が発見された地へ一攫千金

狙う人々が殺到することです。

特にアメリカ(カリフォルニア)の

ゴールドラッシュが有名ですが、

そしてその金がなんと、

オーストラリアで発見されます。

ゴールドラッシュなくしては、

今のオーストラリアは無かったかもしれません!

1851年、オーストラリアの

ゴールドラッシュの始まりです。

 

2.ゴールドラッシュで街が力をつける

1840年代後半アメリカで

金が発見されると、

オーストラリアからも一攫千金を求めた人々

がたくさん旅立ちました。

 

困ったのはオーストラリア政府です。

一気に多くの働き手を失ったのですから。

そこでオーストラリアの州政府も、

金を見つけた者に賞金を与える」と発表しました。

 

政府の思惑通り、

アメリカに行った人たちは帰ってきました。

そして彼らだけでなく世界中から人々が集まってきました

 

1851年時点で437,665だった人口は、

1861年には1,168,149人にまで激増したそうです。

人が増え、経済は成長し、

オーストラリアは発展していきました。

 

3.ゴールドラッシュで人が力をつける

オーストラリアの労働者が力をつける

きっかけとなる出来事がありました。

「ユーレカ革命」です。

ゴールドラッシュの流れに乗り希望に燃えて

やってきた金鉱の生活は、

多くの人にとっては惨めなものでした。

金を見つけて豊かになれる人はごくわずかだったのです。

次第に、人々の間に不満が積もっていきました。

1854年10月、事件が起きます。

1人の炭鉱夫が殺され

1人の炭鉱夫が重傷を負いました。

 

翌朝、あるホテルの主人が

殺人の罪で捕まりましたが、

証拠不十分で釈放。

 

炭鉱夫たちは、ホテルの主人が

裁判官と友達だから釈放されたと、

これに抗議しました。


炭鉱夫たちは政府にたまった

うっぷんをぶちまけますが、

政府は聞く耳を持ちません。

炭鉱夫たちの怒りはいよいよ頂点に達します。

暴動を恐れた政府は、軍隊を続々と送り込みました。

それに対抗して炭鉱夫たちは砦を築き、

武装し、南十字星の旗を掲げ、150人がたてこもります。

 

しかし彼らが油断したある日曜日、突如軍に襲われました。

政府は戦いには勝ったものの、

労働者への待遇を改善します。


次第にオーストラリア全土で

労働者の権利が拡大されるようになります。

ユーレカ革命をきっかけに

オーストラリアの人々は「単なる働き手」から

「国民・市民」へと変わっていくのです。

 

4.ゴールドラッシュが人種差別を生む

ゴールドラッシュが

オーストラリアにもたらした影響は、

良いことばかりではありませんでした。

 

これをきっかけに、

白人以外を差別する風潮ができるのです。

金を求めて世界中からやってくる人のなかでも、

中国人は特に多かったのだそうです。

 

そして休みなく働き続ける彼らは、

ヨーロッパ人より金を多く見つけていきます

 

次第に中国人は嫌われていき、

政府は中国人の上陸を禁止しました。

 

しかし彼らは政府の目が無いところに上陸し、

何千キロも歩いて金鉱までやってきたそうです。

 

なんとしても中国人を締め出したい政府は、

オーストラリアは白人の国だ。

有色人種は来てはいけない。」

という法律をつくりました。

 

これが1970年代まで続いた

白豪主義の始まりでした。

 

5.ゴールドラッシュで白人の国へ

オーストラリアは人口が増えたことで

社会は活性化し、力をつけた各都市は

イギリスから自治を認められました。

 

労働者の権利も保障されました。

 

国も人も自立し始め、

国としての力をつけていきました。

 

また、人々の移動が多くなったことで

道が整備され、都市同士の繋がりも生まれました。

オーストラリアが、

ゴールドラッシュによって

徐々に国らしくなっていくのです。

ただ、人種差別という問題も残しつつ。

植民地化によって始まり、

ゴールドラッシュによって整い、

徐々に「白人の国オーストラリア」ができていくのでした。

 

 【参考】

ゴールドラッシュ - Wikipedia

http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/australia_his/page3.html

 

 

オーストラリアの労働運動のきっかけも金?

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2013年6月22日

 

オーストラリアの労働運動を知る上で

欠かせないのが、

ユーレカ革命です。

ゴールドラッシュの流れに乗り

希望に燃えてやってきた金鉱の生活は、

ほとんどの人にとって惨めなものでした。


金を見つけて豊かになれる人は

ごくわずかだったのです。


更に人々を追い詰めたのが税金


働いても稼げない。

稼げないのにお金を取られる。

お金が無ければ罰せられる。

次第に、人々の間に不満が積もっていきました。

1854年10月の深夜。

飲んだくれた炭鉱夫2人が、

ホテルのドアをたたきました。


もう閉店になっていたので主人は断り、

二人は悪態をついて帰りました。

 

途中何者かに襲われ、一人は殺され、

一人は殴り倒され意識不明になりました。

 

翌朝、ホテルの主人が殺人の罪で

捕まりましたが、証拠不十分で釈放。

 

炭鉱夫たちは、ホテルの主人が

裁判官と友達だから釈放されたと、

これに抗議しました。

 

殺人現場に4000人が集まり、

興奮した群集はホテルに

火を放って焼いてしまいました。

炭鉱夫たちは政府に様々な抗議をしますが、

政府は聞く耳を持ちません。

 

炭鉱夫たちの怒りはいよいよ頂点に達します。

暴動を恐れた政府は、軍隊を続々と送り込みました。

それに対抗して炭鉱夫たちは、

砦を築き、軍から奪った武器で武装し、

南十字星の旗を掲げ、150人がたてこもります。

 

しかし彼らが油断したある日曜日、

突如軍に襲われました。

 

ほとんどが寝入っていた炭鉱夫たちは

一方的にやられ、

戦いは20分で終わってしまいました。

 

炭鉱夫側の死者22人、けが人20人、

軍は死者4人、けが人12人 でした。

政府は戦いには勝ったものの、

再びこのようなことが起こることのないように

労働者への待遇を改善します。

 

そしてこのような労働運動が

オーストラリア全土に広がっていきます。

 

次第に、オーストラリア全土で

労働者の権利が拡大されるようになります。

※ちなみにその権利とは、

・賃金を上げる

・税金を下げる

・長時間労働の廃止する

・普通選挙権を与える

・土地の購入を認める

などでした。

ユーレカ革命は、

数字から見ると小さな出来事のように見えますが、

歴史的には大きな意味のあるものでした。

 

【参考】

オーストラリアの歴史 - Wikipedia

ユリーカの反乱、ユーリーカの反乱、ユレカの反乱、ユレカ砦の反乱 - [Bun45] オーストラリア辞典 - 大阪大学大学院 西洋史学研究室

 

 

そろそろファームの街を出ようかと思う

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2013年6月19日

 

そろそろバンダバーグを

出ることにしました。

 

バンダバーグには、

7月いっぱいまで居る予定でした。

ファームでできるだけ

お金を貯めたかったからです。


ワーホリジャパニーズがオーストラリアの街で

就く仕事の多くはレストランかカフェ

 

そのうちのほとんどが

ジャパニーズレストランで働いているそうです。

みんなローカルジョブで働きたくても、

なかなか難しいとのこと。

ジャパレスのデメリットは、

周りが日本人ばかりなだけでなく、

給料が安いことです。

 

自給800円ほど。

オーストラリアの最低時給は1500円なのに

ちなみに今のファームの給料は2000円。

そういうわけで、

ファームに沈没(居座り続けること)

してしまう人が大勢居ます。

私も、まだここに居ようと思っていました。

しかし、時間がもったいないので

出たくなってきました。

そういうわけで今日はずっと

情報収集をしていました。

メルボルンにずっと行きたかったのですが、

ジャパレスで働くのはためらいます。

 

ツアーガイドをしてみたかったのですが、

求人が全くありません。

予定は未定です。

ファームで働いて思いましたが、

英語が下手な外国人労働者は底辺です

色々と厳しいです。

 

 

suteacher.hatenablog.com

オーストラリアの多国籍文化のきっかけは金?

金価格さらに高騰!「今から購入するのは損」とは言えない理由 | 富裕 ...

 

オーストラリアの歴史を語る上で、

ゴールドラッシュは欠かせません。

 


1840年代後半アメリカで金が発見されると、

オーストラリアからも一攫千金を

求めた人々がたくさん旅立ちました。

 

困ったのはオーストラリア政府です。

一気に多くの働き手を失ったのですから。

 

そこでオーストラリアの州政府も、

金を見つけた者に賞金を与える」

と発表しました。

 

実はオーストラリアにも金があったのです。

政府は金の発掘による混乱を避けるため、

その事実を隠していました。

 

アメリカのゴールドラッシュに対抗するため、

オーストラリアもゴールドラッシュを

作り出したのでした。

 

政府の思惑通り、アメリカに行った人たちは帰ってきました。

そして彼らだけでなく世界中から人々が集まってきました。

 

1851年時点で437,665人だった人口は、

1861年には1,168,149人にまで増えます。

 

これがゴールドラッシュです。

しかし、もちろん金は無限ではありません。

金が取れなくなると、人々は街へ戻っていきます。

金を求めてオーストラリアへ来た外国人も、

国には戻らずに近くの街で働くようになります。

政府の作戦通りでした。

 

人が増えれば

建設業が盛んになり、

ものがたくさん生産されるようになり、

農業もさかんになります。

結果的にオーストラリアの経済は潤いました。

 

 【参考】

ゴールドラッシュ - Wikipedia

http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/australia_his/page3.html

 

オーストラリアのアボリジニ問題 まとめ

アボリジニとは?オーストラリア先住民の現在や迫害の歴史そして文化の ...

オーストラリアはイギリスからの移民によって

できた国ですが、アボリジニという原住民が

今も暮らしています。

 

オーストラリアは過去の過ちに対して

謝罪を行い償い続けていますが、

今もまだ問題は山積みです。

 

 

1.アボリジニとは?

suteacher.hatenablog.com

 

2.アボリジニはなぜ迫害されたのか?

suteacher.hatenablog.com

 

3.アボリジニは死にゆく人種?

suteacher.hatenablog.com

 

4.アボリジニへの歴史的謝罪

suteacher.hatenablog.com

 

5.今もまだ残るアボリジニ問題とは?

suteacher.hatenablog.com

今もまだ残るアボリジニ問題とは?

アボリジニとは?オーストラリア先住民の現在や迫害の歴史そして文化の ...

アボリジニへの歴史的謝罪」では、

オーストラリア政府のアボリジニへの

対応が好転したことを書きました。

 

しかし、今日に至っても

「アボリジニ問題」は存在します。

 

 

 

教育問題

アボリジニの教育レベルは、

かなり低いことが明らかになっています。

その主な理由は以下の2つだそうです。

教育による白人同化を恐れている

オーストラリアを統治しているのは、主に白人です。

オーストラリアの教育を動かすのも白人。

 

アボリジニの人々は、

その教育によって白人と同化してしまい、

アボリジニとしてのアイデンティテ

失ってしまうことを恐れています。


教育を受ける金銭的余裕が無い

親が貧しいために子どもも教育を受けられない。

負のスパイラルが続いています。

 

 

雇用問題

アボリジニの人々は、

社会的地位が低い職業に就くことが

多いことが明らかになっています。

 

これは決して、

人種差別による就職難ではありません。

 

アボリジニの人々が就職難に陥っているのは、

教育をしっかりと受けられていないこと

主な理由だそうです。

 

教育問題が、ここにもつながります。

 

健康問題

アルコール中毒、ドラッグ中毒に陥る

アボリジニがとても多いのだそうです。

 

そしてそうなってしまう理由に

・社会的地位の低さ

・経済的地位の低さ

・アイデンティティを失ってしまったこと

などが挙げられるそうです。

 

 

社会福祉による問題

アボリジニへの法律的な差別はほとんど無く、

むしろ社会福祉によって保護されています。


しかしその社会福祉を当てにして

堕落した生活を送るアボリジニが

後を絶たないそうです。

 

社会福祉のあり方が問われます。

 

 

白人の怒り問題

・政府に頼って堕落した生活を送るアボリジニ

・中毒になってすぐ問題を起こすアボリジニ

が、白人は許せないようです。

 

しかし、「こういう社会にしてしまったのは白人。」

というのがアボリジニの意見なのだそうです。

 

まとめ

現在のアボリジニは、

1.白人社会に同化している人

2.白人社会に同化しきれない人

3.白人社会とも関わりつつアボリジニも少し残して生きている人

4.白人社会とは関わらずアボリジニとして生きている人

など色々なようです。

 

完全な異文化同士が互いに溶け合って

生活するのはやはり難しいとうことでしょうか。

また、これまで世界で起きていたことは

こういうことの繰り返しだったのだと知りました。

オーストラリア日誌 -ファーム編- まとめ

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ファームジョブに関する記事をまとめました。

 

 

1.語学学校卒業!しかし大ピンチ!!

suteacher.hatenablog.com

 

2.ファームジョブ探しで学んだこと

suteacher.hatenablog.com

 

3.初めての仕事はズッキーニファーム

suteacher.hatenablog.com

 

4.ズッキーニ大戦争

suteacher.hatenablog.com

 

5.ファームで収穫量No.1のベストズッキーナーになる

suteacher.hatenablog.com

 

6.スイートポテト1日で、ズッキーニ1週間の給料超え

suteacher.hatenablog.com

 

7.「I'm owner. you are worker!!」

suteacher.hatenablog.com

 

8.残高が3000円。

suteacher.hatenablog.com

 

9.泥棒多め

suteacher.hatenablog.com

 

10.そろそろファームの街を出ようかと思う

suteacher.hatenablog.com

アボリジニへの歴史的謝罪

豪ラッド首相、議会でアボリジニに歴史的謝罪 写真2枚 国際ニュース ...

2013年6月14日

 

オーストラリアのアボリジニに対する

植民地化による迫害は1920年頃までのこと、

同化と保護は1960年頃までのことでした。

しかしそれ以降、同化策も廃止され、

徐々に「和解」へと向かっていきます。

 

近年、特に大きな動きが3つありました。

 

 

土地所有権の見直し(1990頃)

アボリジニが実は精神的にも経済的にも

土地と強く結びついていたことが

広く知られるようになります。


1993年の先住民原法により、

先住民が土地との繋がりを明らかにできた場合は

返還または保障なされるようになりました。


「空と大地の神が世界を作り、

私たち人間が生まれ育った大地は

家族が暮らす大きな家」

 

このような考えを持つ

アボリジニの人々にとって、

これはとても大きな出来事でした。

 

 

シドニーオリンピック(2000)

オリンピック会場を立候補する段階から

「アボリジニら先住民に貢献する五輪の開催」

を約束し、和解への第一歩にしようとしていました。


そのため聖火リレーはの出発点を

アボリジニの聖地である

エアーズロックとしました。

 

また、第一走者を

アボリジニの「ノバ・ペリス・ニーボーン」

アトランタ五輪女子ホッケー金メダリス ト)

最終走者を「キャッシー・フリーマン」

シドニー五輪400m走金メダル獲得)

決定しました。

 

 

ケビン・ラッド首相の謝罪(2008)

オーストラリア元首相ケビン・ラッド氏が、

「『盗まれた世代』とその家族たちが受けた苦しみや痛みに対し謝罪する」

誇りある人々と文化が受けた侮辱に対し謝罪する」

とアボリジニに公式謝罪を行いました。

 

これは、アボリジニの人々が200年以上

求めていた歴史的謝罪でした。

 

ケビン・ラッド氏が謝罪したのは

かつての「同化」「保護」政策についてであり

土地の没収、虐殺については

触れなかったそうですが、

「I'm sorry」と繰り返すケビン・ラッド氏の姿に

アボリジニの人々は涙を流して喜んだそうです。

 

 

オーストラリア日誌 -語学学校編- まとめ

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語学学校で学んだこと、感じたことに

関する記事をまとめました。

 

 

1. 語学学校1日目

suteacher.hatenablog.com

 

2. 第一言語しか話せないのは日本だけ?

suteacher.hatenablog.com

 

3. 教え上手な先生のやり方は万国共通!

suteacher.hatenablog.com

 

4. 語学学校以外にも学べる場所はある

suteacher.hatenablog.com

 

5. スイスは欧州の異端児?

suteacher.hatenablog.com

 

6. イングリッシュネームがないのは日本人だけ?

suteacher.hatenablog.com

 

7. イスラム教徒の友達が固まってしまった

suteacher.hatenablog.com

 

8. 日本人は中国語を学ばなくていいのか?

suteacher.hatenablog.com

 

9. 海外のニュースを見るには、語学力を伸ばすだけじゃダメ?

suteacher.hatenablog.com

 

10. 語学学校卒業!しかし大ピンチ!!

suteacher.hatenablog.com

オーストラリア豆知識シリーズ まとめ

コアラ - Wikipedia

長文で書くまでもない、

オーストラリア豆知識をまとめました。

 

  

オーストラリア豆知識シリーズVol.1

    #1 国際コアラ会議が開かれている!
    #2 店員さんは必ず「How are you?」
    #3 街が綺麗
    #4 1階建てが多い
    #5 図書館は楽しむところ?

suteacher.hatenablog.com

 

オーストラリア豆知識シリーズVol.2

    #6 イギリスのNEWSがよく流れる
    #7 オーストラリアの女王は英国と同じ
    #8 歩行者に優しいドライバー
    #9 トヨタの車が多い
    #10 なまりがひどい

suteacher.hatenablog.com

 

 

オーストラリア豆知識シリーズVol.3

    #11 店が開くのも閉まるのも早い
    #12 グリーンティーにミルクを入れる
    #13 飲食店も多国籍

suteacher.hatenablog.com

アボリジニは「死にゆく人種」だった?

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2013年6月13日

 

今日はアボリジニの

「盗まれた世代」
について書きます。

 

「盗まれた世代」とは、

1869年から1969年までの間、

オーストラリア政府や教会によって 

家族から引き離された

オーストラリア・アボリジニの

混血の子どもたちを指す言葉です。

 

オーストラリア政府が行おうとしたのは

「同化・保護」という

アボリジニの人々に対する

人種隔離政策でした。

 

 

「同化・保護」を行った理由

一言で言うと、

オーストラリアを純粋な

白人社会にしたかったから

オーストラリア人は、

アボリジニを原始的な

石器時代の人間であると

認識していました。

 

オーストラリア人にとってアボリジニは

「絶滅すべき存在」だったのです。

1920年頃には、

アボリジニの人口は7万人

ほどにまで減少します。

 

そしてオーストラリア政府は

アボリジニを「死にゆく人種」として

分類するようになります。

西洋白人男性が世界で1番だと

考えているオーストラリア人は、

白人ではなく、あらゆる面で

自分たちよりも劣るアボリジニが

自分たちの社会に存在することが

おかしいと考えていたそうです。

 

 

「同化・保護」とは何か

同化

・混血アボリジニの子どもを親元から引き離す。

・その子どもたちを強制収容所や孤児院に収容する。

オーストラリア人としての教育を受けさせる。

 

しかしこの政策に対する財源は

ほとんど充てられず、結果失業、

アルコール依存症に陥る人が大勢居た。

 

また、アボリジニに免疫の無い病気も蔓延した。

「同化」という名の下の、単なる引き離しだった。

 

保護

純血アボリジニを、全国約250箇所に集めて、働かせる。

アボリジニの人々は、

賃金も与えられずひたすら働かせられました。

 

そしてその中には、

言語が通じない部族同士、

互いに関係を持ってはいけない部族同士

もいたそうです。

 

「保護」されるどころか、

奴隷のように扱われました。

 

 

オーストラリア政府は、

「同化」と「保護」という政策の下で

アボリジニの文化を絶やし、

アボリジニの存在そのものを

この世から消し去ろうとしたのです。

 

現在は多くのアボリジニが

オーストラリアで生活していますが、

結果として彼らからアボリジニとしての

アイデンティティを喪失させることになりました。

オーストラリアはなぜアボリジニを迫害したのか?

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-政府公認のゲームだったアボリジニ狩り-


2013年6月12日

 

今日は、

アボリジニに起こった悲劇

について書きます。

 

1788年のイギリスによる入植開始以降、

アボリジニの人口は減少し続け、

残った人々も社会の周辺へと

追いやられていきます。

 

アボリジニの人々が減少したのには

主に3つの理由があったそうです。

 

  

1.土地を奪われた

イギリス人は、

以下の2つの根拠に基づいて

アボリジニの土地を奪っていったそうです。

 

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A.アボリジニは

・政治制度がない。

成文法も規律ある社会生活もない。

土地の所有関係をはっきりさせるものがない。

土地は未開・未所有なので、自由に開拓してよい。

 

B.神から与えられた土地を耕作せず、

 無為に放っておくことは

 キリスト教精神に反する。
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A.
アボリジニには政治制度はありませんでしたが、

社会生活はありました。

イギリス人には、

裸で生活するアボリジニが

単なる野蛮人に見えたようです。

 

アボリジニが定住をしなかったのも

自然界と調和して生きる。」

という考えからであり、

イギリス側の論理は全く筋違いです。

B.
アボリジニが耕作をしなかったのもまた、

自然界と調和して生きる。」

という考えからでした。

彼らは自然に手を加えることを

よしとしなかったのです。

イギリス人が土地を奪う根拠は、

アボリジニの人々からすると

「意味不明」だったことでしょう。

しかし結局は土地争いに負け、

追い出されてしまうのです。

 

 

2.アボリジニ狩り

イギリス人は、

・服を着ない

・文字を持たない

・色が黒い

・文化を持たない

アボリジニを人類以前の生き物として

みなしていたそうです。

アボリジニを「人」として

認識していなかったのです。

アボリジニを殺すのは

動物を殺すのをなんら

変わらなかったのです

 

彼らは週末になると

「アボリジニ狩り」をおこなったそうです。

まるでゲームのように。

そしてなんとそれは政府公認であったとか。

 

3.伝染病

伝染病を持ち込んだのは、
入植したイギリス人です。
 
もちろんアボリジニの人々には
免疫がありません。
 
多くのアボリジニが原因も分からず
バタバタと倒れていったそうです。
 


その後

アボリジニも抵抗はしたそうですが、

当時世界一の国であった
イギリスに勝てるはずがありません。

1920年頃になると、
こうした強制的な迫害は無くなります。
しかし当初50~100万人いた
アボリジニの人々は、
この頃には7万人ほどにまで
減ってしまったそうです。

そしてアボリジニの人々の悲劇は
これだけではありませんでした。
明日は、
「奪われた世代」
について書きます。


調べれば調べるほど、
悲しくなってきます。
 
バンダバーグへ来る前、
ブリスベンでアボリジニに関する展示を目にしました。
 
その時は知識が無かったので
何も思いませんでしたが、
その展示の裏には
こうした歴史が隠されていたのだと思うと
ゾッとしました。